聖都ラサに来る巡礼者の目的地は実はポタラ宮ではない。ジョカン(大昭寺)という聖なる寺院がラサの中心にあり、彼らはジョカン詣でにここまでやってくるのだ(もちろんポタラ宮にも巡礼に行くが、第一の目的地ではない)。ということを知ったのは、ここに着いてガイドブックをちゃんと読んでからなのだが、実際ジョカンに行って彼らの真剣さというか熱気に触れて納得した。
当然といえば当然なのだが、僕ら観光客と巡礼者が寺院に訪れる目的は根本的に違っている。観光客は寺院を「見に」くるが、巡礼者は「祈り」にくる。言い換えれば、ご利益を求めてくるのだ。
ジョカンは大雑把に言って、マニ車が並ぶ外側の巡礼路とお堂が並ぶ内側の巡礼路に分かれている。外側の巡礼路には壁画とマニ車があり、巡礼者はひたすら時計回りに何度も回っている、しかもかなりのスピードで…。彼らにとって壁画なんてどーでもいいのだ。回る(コルラする)ことにだけ意味があるのだ。
ジョカンに入って壁画をゆっくり見ようなんて思っていた僕は、そんな巡礼者のスピードに急かされ、壁画を見る間もなく1周してしまった。そして、内側の巡礼路に入ると大渋滞。列がずらーっとできていてほとんど進まない。巡礼者はご利益を求め、灯明にバターを注ぎ足し、お賽銭を捧げ、そして額を仏像になすりつける。さらに時間があればそこら中触りまくる。僕なんかだと、そういうのって貴重な文化財だから触るべきじゃないんじゃない…なんて思ってしまうが、彼らにしてみれば触ることでご利益がある(と信じている)から、構わず触りまくる。もちろん、保護されるべき部分はガラスで区切ってあったりするので、仏像が壊されたりするわけではないが…。彼らには壁画なんて目に入ってないようだし、お堂の外にある数体の仏像にも関心がないようだ。芸術品として仏像を見ているのではなく、その仏像の持つ由縁が大事なのだ。
小さなお堂を5つくらい回り、ついにご本尊「釈迦牟尼」像まで来ると彼らの真剣な祈りも最高潮、一心不乱に額をこすりつける。警官が急かして次から次へと進ませる。僕も真似して額をつけてきた。そして、釈迦牟尼像を過ぎたらいままでの真剣さはどこへやらという感じで大半の巡礼者は他のお堂は簡単に覗く程度で行ってしまう。だから渋滞はここで一瞬にして解消される(笑)。
二階や屋上にも上がれるのだが、そんなところに行くのは観光客だけだ。寺院というのは祈るための場所であり、祈る人のためにある。見るだけの人は脇役でしかないのだ。そんな当り前のことをここに来て気づかされることになった。
↓チベタンの子供達
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