Day119 モノのある家ない家

今日もバラコットを訪問し、27日に引き続き傷の重い人たちのケアとテント村移住に関するリサーチを行う。前回と同じように5時頃出発だったが、今までにはなく車内にいてもサンダル履きでは寒いなぁと感じた。この2週間ほどでだいぶ寒さが厳しくなったようだ。山間部でテント住まいしている被災者はだいじょうぶだろうか[:曇り:]
訪問するたびに軍やNGO主導のテント村がバラコット手前のほうに増えてくる。援助物資の配給場所に集まるためか被災者が住む場所が集約化されてきたようだ。今日も渋滞に巻き込まれることなく順調に進む[:ニコニコ:]
ベースキャンプ周辺に車を停め、何軒かテント村移住に関しヒアリング。ぜひ連れて行ってほしいという人も数人いたが、大半はまだ決めかねている様子だ。このあたりの人の感覚ではイスラマバードはかなり遠いところのようだ。淡路島で震災にあった人が東京の仮設住宅に来ませんか?と聞かれているようなものかもしれない。
山間部のテントの数は増えているところも減っているところもあり、トータルでは若干の減少といったところか。最近テントの配給があったようで、ビニールシートから丈夫そうなテントに建て替わっているものも多い。
ナシーマなど大怪我を負った人たちの経過は順調。アフガン人の医療キャンプが2日前から設置されていて次から次へと注射や点滴を刺していた。見たところ患者は年寄りが多いようだ。さすがに外傷の手当はほとんどなく、カゼや下痢、それに伴う脱水症状などの治療が多い。薬が足りないから持ってきてほしいとリクエストを受けるが、今日はほとんど持ち合わせがないし、彼らも数日でここを離れてアフガンへ戻るというので手持ちのうち数に余裕のある薬だけ渡しておいた[:病院:]
この周辺についていえば水道が一部復旧、バザール周辺では瓦礫が除去された場所も少しながら現れだいぶすっきりしてきた。混乱を極めていた人ごみもだいぶ緩和、八百屋、お菓子屋、(瓦礫の上ながら)散髪・髭剃り屋も営業を再開している。思ったより速いペースで生活インフラは回復していくかもしれない[:拍手:]
続いて、さらに上のバリパットラングへ移動。谷へと下る道の脇でぼんやりと座っている女性がいた。話してみると、彼女は地震の後5ヶ月で流産し体調がずっと悪いのだという。瓦礫と化した彼女の家まで行くとばあちゃんが出てきて地震のときの様子をジェスチャーを交えて話してくれた。畑でトウモロコシを刈っていたら突然大きな揺れがきて立っていられなくなった。そして、畑の隣にある家の建っていた地面が崩れ、家はそのまま壊れ、瓦礫の山になったという。息子がその下敷きになって死んだといって石を投げて場所を示してくれた。その目には涙が浮かんでいた。地震の後、彼女は何度そのシーンを思い出しては涙を流したのだろう[:ポロリ:]
バリパットラングでもいいテントが増えていたが、一方で相変わらずトタン板を重ねただけの吹きっさらしに住んでいる人もいる。モノを手に入れられる家とそれができない家の差が目に見えて大きくなってきた。その差は男手の数によるものだけだろうか?女性ばかりのある家はモノがないのに幼児が多く、すぐそこまで迫っている冬に耐えられるのかとても不安だ。何とかしてあげたいのだが、そういう家庭に限って警戒心が強く、自分から手を伸ばしてくることが少ない。中にはイスラマのテント村への移住を勧めたら(人買いと思ったらしく)とんでもないといった感じで子供を隠す女性もいた[:ムニョムニョ:]
帰りはアボタバードのアユーブホスピタル併設の避難民キャンプを訪問。そこでは数人の黒人シスターがケガ人の世話を手伝っていた。パキスタンで黒人を見たのも初めてなら、シスターを見るのも初めてだ。どこの出身か尋ねると、もともとはタンザニアから来たが、自分たちは生まれたときからラワールピンディに住んでいるという。ピンディにアフリカ人コミュニティがあるのだろうか?ここのキャンプは病院併設なのでけが人が多い。ベッドが入れてあるのでテント一つあたりの収容人数にも余裕がある。場所柄バラコット周辺の人が多いかと思ったらここもカシミーリが大半だった。中にはイスラマのH-11キャンプがいっぱいで入れずここに移された人もいるという。テント村の需要は高いようだ。

本日の1曲 武田鉄矢「贈る言葉」

↓瓦礫の中で営業再開

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