Day103 震災支援2日目

ベースキャンプの1日はだいたい6時起床、7時就寝という超健康的な生活。毎晩、夕方6時頃から夕食をとる。その間に外は暗くなり(当然電気もないので)食後7時頃には寝袋に入る。寝るのが早いのでどうしても目覚めも早くなり、明るくなり始める6時頃には皆自然とテントから出てくる。そして7時から食事、食後すこしゆっくりしてから外へシートを敷いて薬を出し治療の準備。それを見た村人が徐々に治療へ集まってくるという毎日だ[:ニコニコ:]
そんな状態なのでバラコット滞在中は日記もメモ程度しかつけていなかった。今、それを思い出しながら後追いで日記をつけているので内容も薄く、正確な日付も違っているかもしれないことを先にお断りしておく。

さて、2日目いよいよ駐在スタッフによるレギュラーな活動開始。しかし、現在の駐在スタッフに医師・看護士は含まれていないため、その間は毎日イスラマバードから医師に依頼して治療しに来てもらう手筈になっている。
今日も医師を依頼しているのだが…

いつまでたっても医者が来ない

キャンプへ治療に来る人たちにはまだ医者が来ないからもうしばらくしてから来てくださいとお願いする繰り返し。現地での活動が(日本でやるそれとは違って)そう簡単には進まないことは承知しているが、さすがにイライラが募る。幸い、携帯は通じたのでイスラマバードの本部に連絡して医者が来ないことを告げるが「今朝未明に出ているはずだ」との返事。向こうでも事情を確認してくれた結果「11時頃バラコットに着いているはずだが、ベースキャンプの場所が分からないらしい」という連絡が入る。こちらは当然に昨日来た医者が来るとばかり思っていたのだが…そうではなかったらしい[:モゴモゴ:]
連絡を受け、さっそくバザールまで降りてその医者を探すが見つからない。本当に来ているのかも疑わしくなってくる。結局、手配した医者を探すのはあきらめ、他の医療ボランティアに来ている医者に往診ができないか頼むことになった[:ムニョムニョ:]
再びバザールまで降りて他のNGOや軍のキャンプを回って医者がいるところに頼むが、どこも手一杯の様子。韓国から来たNGO団体のキャンプでは連れてくれば診察するが往診はできないとの返事。それじゃ、わざわざ上のほうに医療キャンプを設置した意味がないのだが…今日はそれでもしかたないか、と思い始めたころ。パキスタンの移動救急医療チームに医者が二人参加していて、そのうち一人がアシスタントと一緒に我々のキャンプまで来て患者を診てくれることになった。これで一安心[:ラッキー:]
さっそく、医者を連れてキャンプへ戻り診察開始。医者が来たのを見てかなりの患者がやってきた。が、薬の名前もウルドゥー語もよく分からない僕は「○○が必要だ。××はないのか?」というドクターやアシスタントのリクエストに右往左往するばかり。パキスタンの医者はてきぱきと(僕から言わせればかなり乱暴に)治療をこなしていく。こんな状況では一人一人に対して丁寧な対応ができないのは分かるが、それを見ているのはちょっと辛い。

すごく深い傷なのに我慢強く消毒の痛みに耐えていた少女が患部に麻酔の注射を何本もうたれたとき、突然がばっと起きだして「もう止めて、包帯をして帰して」と泣き叫びだしたときは本当に心が痛み、医者でも看護士でもなく何もできずにこの場立ち尽くしている自分の無力を痛感した。代われるものなら代わってやりたい…でも、自分には手を握って「頑張って、もうすぐ終わるよ」と声をかけてあげる(しかも彼女には通じない日本語で…)ことくらいしかできない。察するに余りある彼女の痛みと無力感とで涙がこぼれそうになる。僕が18歳の時にこの経験をしていたらきっと医者を志していただろう。
その後にも、傷の深い数人の子供があまりの痛みに「死んじゃうよぉ」と泣き叫んだりしながらも治療を受けていった。5時過ぎ、暗くなり始め今日の治療は終わりとする。自分達のキャンプも大変なのに20分かけて上がってきて治療をしてくれた医師には大感謝だ[:拍手:]

この夜は苦痛にゆがむ子供たちの顔が何かの拍子に浮かんでは消えていった。

本日の1曲 Van Halen「Right Now」

↓アスファルトの道路にできた地割れ

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